「私は」は、「は(ha)」と書くのに、 どうして「わ(wa)」と読むのか?
NHKには
『チコちゃんに叱られる!』
という番組があります。
この番組の今回の内容は
「私は」の「は」は
なぜ「わ」ではなくて、
「は」を使うのですか?
というものでした。
つまり、
「私は」の「は」は、音としては「わ」です。
それなのに、
「ha」と読む「は」を使うのは
どうしてですか?
音に合わせて、
「私わ」とすればいいのではないですか?
という質問内容でした。
このテーマは
日本語学習者なら、
一度は疑問に思ったことが
あるのではないでしょうか。
とても役に立ちそうでしたので、
ここに記しておこうと思います。
その前に
●日本がどうして文字を持てるようになったのか、
●「ひらがな」「カタカナ」は
・どう誕生したのか、
について、
わかっていると
より理解が深まるのではないかと思います。
そちらの記事は
以下に書いてありますので、
ご覧になりたい場合は
クリックしてみてください。
では、
今日のテーマです。
「私は」は、「は(ha)」と書くのに、
どうして「わ(wa)」と読むのですか?
チコちゃんの回答は
「私は」は 昔「私ぱ」だったから。
というものでした。
これでは「???・・・」です。
どうも、
日本語の音そのものが
時代とともに変化していったことが
大きな原因のようです。
テレビでは
国立国語研究所教授
小木曽 智信氏
が解説を担当していました。
発音の変化
「私は」の「は(wa)」は
主題を表す助詞です。
「は」と書いて「わ」と読むのは
時代が進むにつれて、
発音がどんどん変わっていったからです。
「は」の発音が
時代が進むにつれて、
変わっていったとは、
一体どういうことなのでしょうか?
実は
「は」を「わ」と読むようになったのは
平安時代の終わりごろです。
そもそも、奈良時代までは
「は・ひ・ふ・へ・ほ」という
発音そのものがありませんでした。
漢字はありましたが、
「ひらがな」は
まだ誕生していなかった時代です。
「ひらがな」がなかったので、
奈良時代以前は
日本語の発音に漢字を当てて、
文章を作っていました。
例えば、
奈良時代に作られた歴史書
『日本書紀』のあるページには
漢字で
「和 餓 喩 區 涵 智」
と書いてあります。
奈良時代は
「和」→この文字は「わ」と呼んでいました。
「餓」→この文字は「が」と呼んでいました。
そこで
「和 餓 喩 區 涵 智」は
和(わ) 餓(が)
喩(ゆ) 區(く)
涵(み) 智(ち)
のように読め、
今でいう
⇒「我が行く道」
のことだとわかります。
奈良時代には
「はひふへほ」の発音はなかった
繰り返しになりますが、
奈良時代以前までは
日本語の音に
「は・ひ・ふ・へ・ほ」
という発音はありませんでした。
「はひふへほ」に一番近い音は
「ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ」
だったのです。
どうして
そのことがわかったのか?
奈良時代以前は
「はひふへほ」に近い音の漢字として、
「波・比・不・部・保」が
当てられていました。
この漢字が
日本に伝わってきた当時の
中国の文献を調べると、
中国では
「波・比・不・部・保」を
「ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ」
に近い発音で
読んでいたことがわかります。
そこで、
当時の日本人は
今でいう「は行」を
「ぱ行」で発音していたと考えられます。
その後、
平安時代になると、
「ひらがな」が誕生します。
また、
平安時代には
今まで「ぱ」と発音していた言葉が
「ふぁ」という発音に変わっていきます。
要するに
「私ぱ」といっていたのが、
「私ふぁ」のように変わったのです。
この発音の変化は
「ぱ行」全てで起こっています。
「ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ」
・・・・ ↓
「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」
どうして、
このように発音が変化がしたのか?
では、
どうして奈良時代までは
「ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ」
と発音していたのに、
時代がたつにつれ、
「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」
という発音に変わっていったのでしょうか。
国立国語研究所教授
小木曽 智信氏によると
「楽だからです」
という回答でした。
人は
発音するとき、
少しでも
エネルギーを減らそうとします。
つまり
いくつかの音があったとしたら、
一番ラクに出せる音を選ぶのだそうです。
その結果、
どんどん楽な発音に
変わっていった、ということです。
どうして音が変化したとわかったのか?
では、
どうして
このように音が変わっていった、と
わかったのでしょうか?
その証拠は
日本語の教科書にあります。
「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」
と発音していた証拠
戦国時代(1467年~1615年)に
宣教師によってつくられた
日本語の教科書があります。
(宣教師が日本語を学ぶために作った教科書です)
その教科書の表紙には
以下の言葉が記載されています。
NIFON NO COTOBA
これを見ると、
「にほん」が「にふぉん=NIFON」
と書かれています。
このように、
様々な書籍を調べてみると、
奈良時代までは
「ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ」
と書かれていた音が
平安時代になると
「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」
に変わっていったことがわかるのだそうです。
「は」の発音が二つに枝分かれする
奈良時代は
「私ぱ」
平安時代は
「私ふぁ」と言っていました。
「私ふぁ」の言い方は
江戸時代の初めごろまで
続いていたようです。
ところが、
さらに時代が進むにつれて、
「は」の発音が二つに分かれていきます。
先頭の「は」と語中語尾の「わ」
「ふぁし」や「ふぁっぱ」
のように、
言葉の先頭で
「ふぁ」と発音していたものは
「はし」「はっぱ」のように、
「は」と発音するようになっていきます。
語中や語尾に使われた「ふぁ」は
「ふぁ」から「わ」の音に変わっていきます。
例えば
「私ふぁ」は「私わ」へ、
「かふぁ」は「かわ」へ
といった具合です。
つまり、
「私は」の「は(wa)」は
「私ぱ」→「私ふぁ」→「私わ」
という発音に変わっていきます。
どうして、「ぱ」が「ふぁ」に変わって、
今度は「わ」になったのでしょうか?
小木曽教授によると、やはり
「楽だからです」
という回答でした。
実際に口を動かして
発音してみるとわかります。
「ぱ」→「ふぁ」→「わ」
確かに、
どんどん力を入れないで
言えるようになっている、気がします。
まとめると、
「私は」の「は」は
もともと「私ぱ」と言っていましたが、
発音を楽にするために、
「私ふぁ」そして「私わ」に
音変化していった、
ということです。
ここで問題です。
「わ」と発音するようになった理由は
わかりました。
でも、
それなら、なぜ「わ」という文字があるのに、
わざわざ「は」という文字を使い、
「わ」と読ませるのでしょうか?
主題の「は」を「わ」にしなかった理由
小木曽教授の回答は
「それは政府が、そうしようと決めたから」
というものです。
これは
戦前に使われていた
国語の教科書です。
実は戦前まで
話し言葉と書き言葉は一致していませんでした。
例えば
話し言葉では
おの(斧)なのに
書き言葉では
「をの」と書いていました。
おかし(お菓子)は
「おくぁし」
「どうでしょう」は
「どうでせう」
のような具合です。
文字は
発音通りには書かなかったのです。
これは
算数の教科書です。
赤線をひいた箇所を
見てください。
「きゅうす(急須)」が「キフス」
「でしょう」が「デセウ」、
「かって(買って)」が「カツテ」、
「かん(缶)」が「クワン」、
「もらいました」が「モラヒマシタ」
のように書かれています。
これでは何かと不便です。
そこで、
1946年(昭和21年)に
吉田茂内閣によって
発音通りに「ひらがな」を書く
「現代仮名遣い」というルールが
定められました。
このルールに従えば
「私は」→「私わ」と書くのが
正しいとなります。
しかしながら、
「私は」の「は」は
主題を表す言葉(助詞)として、
平安時代以降、ずっと使われてきました。
1100年以上、
「私は」としていたものを
突然「私わ」に変えたら、
混乱してしまうだろうと判断されたのです。
そこで、
「私は」の「は」は例外として、
「は」のままにすると決まったのです。
これで、
ようやく説明が終わりとなりました。
ここからは余談です
「私ぱ」と言っていた奈良時代。
「針(はり)」は「パリ」
「母(はは)」は「パパ」
と言っていたことになります。
今と反対です。
こんなことを想像すると
楽しくなってきますね。
また、
今書店では
戦国時代の羽柴秀吉は
「ふぁしば ふぃでよし」
だった、という本も並んでいます。
なかなかに興味の尽きない話題です。
ではではニゴでした。