漢字の書き順
NHKには
『チコちゃんに叱られる!』
という番組があります。
この番組の今回の内容は
「漢字の書き順について」でした。
漢字を
教える仕事に携わっている者にとり、
とても役に立つ内容でした。
ここに、その大枠を記載しておきます。
漢字には、どうして書き順があるのか?
この問いかけに対し、
ゲストの方々の答えは
Aさん:字の形を保つために
・・・・どう書けば一番バランスが取れるのかを
・・・・何千年もかけて、先人たちが作ってきたのでは・・・
Bさん:右利きと左利きの人がいるので、
・・・・書き順が違うと漢字の形がばらばらになるから?
ゲストの方の答え、「そうだなあ」と思えますよね。
この番組の回答としては
●なぜ漢字に書き順があるのか?
それは「先生が教えやすいから」というものでした。
ここからは
広島大学人間社会科学研究科教授
松本仁志氏のお話です。
漢字の書き順は、いつ決められたのか?
漢字の書き順は
65年前の昭和33年に
文部省(当時)が決めました。
つまり、
文部省は
『筆順指導の手引き』という冊子を
日本初の公式の漢字の書き順として
1958年に発刊したのです。
この
『筆順指導の手引き』
には
●書きやすさ
●読みやすさ
●覚えやすさ
を基準として、
881文字の書き順が
記載されています。
65年たった
2023年の今でも、
学校教育では
これをもとに
授業を行っています。
しかし、
ここに疑問が
浮かび上がります。
文部省が書き順を決める前に
そもそも書き順というものが
あったのか否か?
文部省が決める以前に書き順はあったのか?
松本教授によると、
江戸時代には
書き順について書かれた書物が
多数あったそうです。
昔は筆で書いていたので、
筆の流れに沿って
書き順を決めていました。
ところが、
明治時代になると
鉛筆が普及し始めます。
鉛筆書きだと
筆の運びや流れを気にせず書けます。
そこで、
書き順は
次第に人それぞれ、
バラバラとなっていきました。
その様子は
明治時代初期の出版物を見ると
よくわかります。
明治時代初期には
書き順の本が多く出版されました。
その本には
なんと
それぞれに違った書き順が
載っていたのです。
では
書き順がバラバラだと
どんなことに困るのでしょうか?
漢字の書き順が
人それぞれで、困ることがあるのか?
漢字の書き順がバラバラで
困ったのは
特に学校の先生でした。
なぜかというと
漢字の書き順に
決まったルールがなかったため、
教える先生の書き順も
バラバラだったからです。
すると、子どもたちから
「先生によって、書き順が違う!」
「どんな書き順で書けばいいのか、
・・・・・・・・・よくわからない」
という声が上がったのです。
学校では
こうした混乱がずっと続いていました。
この問題解決に乗り出したのが
沖山光氏です。
書き順のルール作りが始まった
文部省小学校教育課に勤務していた
沖山氏は
もと小学校の教師でした。
沖山氏は
その経験を生かし、
どの漢字を
どの学年で学ぶのかを振り分けた、
『漢字の学年別配当表』
を作成しました。
これは画期的なことで、
当時の学校教育に
大きな影響を与えました。
なぜなら
小学校教師は、ずっと
どの学年でどの漢字を教えたらいいのか
悩み続けてきたのですから。
この悩み事を見事に解決した
沖山氏に
もう一つの相談事が舞い込みます。
現場の小学校教師の困りごととは?
沖山氏に寄せられた相談とは・・・
それは
小中学校の教育現場が
漢字の書き順が人によって
バラバラなため、混乱している、
というものでした。
ことの発端はこうです。
昭和30年、文部省に
『教育現場の現状報告書』が、
提出されました。
『小学校の国語授業に関して』の報告書
●先生によって書き順が違うため、
・子供たちが漢字をどう書けばよいのか
・混乱している。
●正しい書き順が分からないため、
・きれいな字が書けないと
・教育現場が荒れている。
上記の内容を
正面から解決しようとしたのが
沖山光氏です。
沖山氏は
書き順のルールを決めるべく、
動き始めます。
筆順についての委員会発足
まず、沖山氏は
第一回筆順についての委員会を開催しました。
そのメンバーには
書き順に精通している
大学教授、国語研究者、書道家、
書道研究者、中学校教師、小学校教師、
といった専門家たちが集められました。
2年間に及ぶ書き順決め闘争
書き順のルールは
簡単に決まるだろうと思われていました。
ところが、
解決に至るには
なんと80回の会議が開かれ、
2年間という時間がかかってしまったのです。
筆順についての会議から
なぜ
この会議が紛糾したかというと・・・
●「上」という漢字を例に挙げます。
あるメンバーは
「上という漢字は
・カタカナの<ト>と同様に
・縦棒から書いた方がいいでしょう」
と言います。
それに対し
あるメンバーは
「いやいや、ひらがなの<よ>は
・横棒から書くのだから、
・上という漢字の書き順は
・横棒からとするのが、覚えやすいでしょう」
●「成」という漢字では・・・
「<ノ>この払いから書いた方が
・筆の運び上、書きやすいでしょう」
「いいえ、
。筆の時代はすでに終わっています。
・今は、その書き順では
・書きにくいというものです」
このように、
各メンバーがそれぞれの意見を述べ、
自分の意見こそが
「正当性あり」と、
その説を曲げなかったのです。
そして、挙句の果てには
「切腹事件」
まで起きてしまいます。
切腹事件勃発
この事件は
東京学芸大学出版から刊行された
『戦後日本の国語教育』(沖山光研究会編)
に、記載されています。
書き順を決める委員会のメンバーは
自分の書き順に、
信念を持った人ばかりでした。
そこで、
毎回会議はおおもめ、
時間ばかりが過ぎていき、
書き順は
なかなか決まりませんでした。
ある時、また侃々諤々、
議論が紛糾しているさなか、
ある書道家が
「私の流派の書き順を認めないのなら切腹する」
と言い出す始末。
大騒動へと発展してしまったのです。
ほとほと困り果てていた座長の
沖山氏に
ついに救世主が現れました。
救世主登場
沖山氏に
救いの手を差し伸べたのは
職場の同僚、江守賢治氏です。
江守氏は
書く順番を
「上から下」「左から右」
などのように、
原則を決めて整理したらどうか、と
アドバイスしたのです。
これなら
教える側も教えやすいし、
統一できそうです。
そのうえ、
初めて習う子供たちも
きっと覚えやすいに違いありません。
沖山氏は
このアドバイスをもとに
案を練り始めます。
沖山氏の書き順の案とは?
沖山氏は
江守氏のアドバイスをもとにして、
●書きやすさ
●覚えやすさ
を大前提とし、
十の原則を考案します。
筆順十の原則
①上から下へ
②左から右へ
➂横書きが先
④横書きがあと
⑤中が先
⑥外側が先
⑦左払いが先
⑧つらぬく縦画は最後
⑨つらぬく横画は最後
⑩横画と左払い
沖山氏は上記の案を
委員会で発表しました。
筆順十の原則の効果
このように
ルールが決まると、
メンバーは
打って変わって、一致団結し始めます。
各メンバーは
この案をもとに、一つのチームとして、
書き順を統一していきました。
頑固一徹と思われた専門家たちも
ルールを決めたことで理解が深まり、
最後はスムーズに
書き順を決めることができたそうです。
まとめ
以上のように、
「筆順十の原則」ができたおかげで、
2年という月日を経て、
計、881文字の書き順が
決まったのです。
なんと
80回もの会議が開かれ、
ついに完成しました。
ここまで
揉めにもめて決められた書き順ですが、
この書き順以外で書いたからといって、
間違いではないとされました。
文部省の
『筆順指導の手引き』にも、
~ここに取り上げなかった筆順についても
・これを誤りとするものではなく、
・また、否定しようとするものでもない~
つまり、
『筆順指導の手引き』の目的は
●先生が教えやすい
●子供が書きやすい
ということです。
この二つを大前提とし、
統一されたのです。
そして、
「正しい書き順は
世の中に一つだけではない」と
記されたのです。
最後に
書き順とは
先生と子供のための指針です。
教育現場で
●先生が教えやすく、
●子供が書きやすく、覚えやすい、
ということが重要です。
こうして
昭和33年に当時の文部省が
基準を決めた書き順は
今も踏襲されています。
私たち日本語教師にとっても
この書き順決めの経緯は
とても参考になるのではないかと思います。
そこで
忘れないようにと、
ここに載せることにしました。
皆様のお役に立てれば幸いです。
ではではニゴでした。