白洲次郎について

白洲次郎という方をご存知ですか。

白洲次郎
名前は
聞いたことがある、
確か、
吉田茂首相の
懐刀だった人・・・、

私には
このぐらいの知識しか
ありませんでした。

 

NHKの番組で、
「ぶれない生き方」という副題に魅かれ、
白洲次郎の特集番組を見ました。
そうしたら、何とも魅力的な方で、
一本筋の通った生き方が、見事で、
多くの方に紹介したくなり、今ここに書いています。

余談ですが、
白洲氏は第二次世界大戦後、
吉田茂首相にこわれ、GHQとの交渉役を引き受けます。
GHQに
従順ならざる唯一の日本人
と言われていたそうです。

プロフィール

白洲次郎(しらすじろう)氏の生い立ち

1902年(明治35年)2月17日、
兵庫県武庫群精道村(現・芦屋市)に次男として誕生。

1914年(大正3年)
旧制第一神戸中学校(のちの兵庫県立神戸高等学校)に入学
サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、
当時白洲家にはすぐ謝りに行けるよう菓子折りが常備されていたという。
(上記はNHKの受け売りです)

イギリス留学

1919年(大正8年)第一神戸中学校を卒業後、
ケンブリッジ大学に聴講生として留学。

帰国後

1928年(昭和3年)、
父親の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け、
倒産したために帰国しています。

1929年(昭和4年)
英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」に就職し記者となります。
ほどなく、
樺山正子さんと知り合い、結婚。お互いに一目ぼれだったそうです。

その後セール・フレイザー商会に勤務。
1937年(昭和12年)には
日本食糧工業(後の日本水産)の取締役を務めています。

武相荘 (ぶあいそう)

白洲邸

白洲夫妻が住居にしていた武相荘

武相荘(ぶあいそう)の名前の由来は
このお屋敷の住所(鶴川村)が
蔵の国と模の国に
またがっていたからだそうです。

(そこに、
無愛想をかけていたのでしょうか・・・)

今は見学もでき、カフェ・レストランで食事も可能だそうです。
武相荘
(〒195-0053 東京都町田市能ヶ谷7丁目3番2号)

武相荘の歴史は1942年10月、
白洲夫妻が当時の東京府南多摩群鶴川村
(現在の東京都町田市能ケ谷)に農家を購入した事に始まります。
その数年前から白洲夫妻は、
第二次世界大戦の戦況悪化による空襲や食糧難を予測し、
農地のついた郊外の家を探していたそうです。
NHKの番組では、
白洲氏はこの戦争は負けるとわかっていた、と言っています。
当時の白洲氏は日本水産(帝国水産統制株式会社)の役員でしたが、
職を辞し、退職金を注ぎ込んで購入したそうです。
1943年5月、正式に転居。
自給自足の農民生活を始めました。
その時、
白洲次郎氏41歳、妻正子さん33歳です。
それ以降、
白洲夫妻は終戦まで専ら農作業に勤しんでいたということです。


白洲次郎氏の言葉

上記は白洲次郎氏のプロフィールです。
私が白洲氏に対して「なんて見事な!」と感じたのは
白洲氏の残した言葉です。

彼は日本の復興にかける想いをこう語っています。

「我々の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした。
我々が招いたこの失敗を何分の一でも取り返して、
我々の子供、我々の孫に引き継ぐべき責任と義務を
私は感じる」

彼は戦争が始まる以前から、戦争反対の立場を
鮮明にしていた人です。反戦活動もしていたようです。

その彼が、未来の子供たちに対して、
とんでもないことをしてしまったという、深い懺悔の想いから
「ぶれない生き方」を選択していったのです。

白洲氏は若いころ、ケンブリッジ大学に留学しており、
そこで、
「ノブレス・オブリッジ=高い地位についた者には
果たすべき義務と責任がある」
という信念をはぐくんでいったようです。

リーダーとしての心得として、こうも語っています。

「人に好かれようと思って仕事をするな。
むしろ、半分の人間に積極的に嫌われるように
努力しないと、ちゃんとした仕事はできない。」

この言葉からも
なまなかな覚悟で生きていた人物ではない
ということがわかります。

 

白洲氏に例えるのは、あまりにもおこがましいかもしれませんが、
私たち教師もクラスの中では教える側で、強い立場にあります。
ですから、
「教師は学生たちに対して、果たすべき義務と責任がある
と思うのです。

どんな責任を果たすのかという、
責任に対する考え方は、
人それぞれで、かなり違うかもしれません。

また、
私たちは目の前の授業だけで、手一杯になってしまいがちです。

時間のある時に
教師の果たすべき義務と責任について考えてみると、
未来に一筋の光が見えてくるかもしれません。

 

私たちは、何を心の核として
日本語とかかわっていったらいいのでしょうか。

私はやはり、学生一人一人に
未来への希望を届けたい!
そのためには、彼らと真摯に向き合っていきたいと考えます。

そして、心から日本を好きになってほしい!
もちろん、どんな国にも嫌な面はあります。
それを踏まえたうえで、いい国だと感じてもらえるように、
努力していきたいと思います。

大上段ではなくてもいいのです。
彼らの国と日本とを結ぶ架け橋になってほしいのです。

たとえ国と国のレベルでは
うまくいっていないとしても、人と人とは違います

せっかくこの「日本」という国を選択してくれたのです。
その想いに少しでも報いていきたい。

この不寛容の時代に、
少しでもあらがって生きていきたい。

戦争のない世界になることに
少しでも力を注いでいきたい。
たまには、
こうして偉そうなことを考える時間を
持ちたいものですね。
そして、
ともすれば忘れがちな自分の想いを
ぶれないように、していこうと思います。

 

ではではニゴでした。

コメントを残す

CAPTCHA


サブコンテンツ

このページの先頭へ