令和(れいわ)とは
2019年5月1日(水曜日)、令和時代の始まりです。
この歴史的瞬間に立ち会えたことに感謝し、
ここに
「令和」に関することを書き留めておこうと思います。
①前半の記事は
2019年(令和元年)5月1日(水曜日)の
日経新聞からの抜粋です。
②後半の記事は
「令和」の典拠となった万葉集から、
その意味解釈を記します。
では、①の日経新聞の記事から。
新元号「令和」の考案者と目されているのは
中西進・大阪女子大学名誉教授です。
日本経済新聞社は中西教授にインタビューを敢行しました。
中西教授は「令和」が自らの発案である、
という明言は避けられましたが、
その言葉の思いについて語っておられます。
令和の意味
中西教授は「令」を「うるわしい」と読んだうえで、
「令和」とは
「令(うるわ)しく平和を築いていこうという合言葉だ」
とおっしゃっています。
現代日本の合言葉
新元号に込められたメッセージ
うるわしい平和の実現
元号には典拠があるが、どこから出たかではなく、
どういう時代にしたいかがスタートラインだと思います。
近代は戦争に次ぐ戦争でした。
1945年にようやくそこから解放され、
かろうじて平和を維持してきた。
天皇陛下(30日退位した上皇さま)が
「平成は戦争のない30年間だった」と
おっしゃいましたが、
それをグレードアップするのが今日の使命ではないか。
「令」なる「和」=(うるわしい平和)の実現を
願ったのが、この元号でしょう。
「令」という文字の深い意味
「令」という文字は一般的に訓読みをしない漢字なので、
なじみが薄かったようですが、
「令」という文字の概念は
「令(うるわ)しい」ということです。
「令」という文字は「善」と並び、
美しさの最上級の言葉です。
これを「和」と組み合わせることで、
ぼんやりした平和ではなく、
うるわしい平和を築こう、という合言葉になる。
戦争で亡くなった人のことは決して忘れてはいけない。
戦争というのは完全に個人の抹消です。「5万の兵」
というように、「人」を付けない。
殺される、葬られる、忘れられる・・・・・・。
全て受け身なんです。
ラ行音(Reiwa)の元号は
文化のクロスオーバーか?
ラ行音はモダンでクールな響きがあるが、
異なる文化を組み合わせて、新しい時代を切り開いていく
といったことを意識しているのでしょうか?
西から来た文化が、中国を通り、朝鮮半島を経て、
日本にたどり着いた。文化の東漸です。
(様々な物や事が西の方から東にある日本へと伝わってきたのです)
そして、
日本でフュージョン(融合)され、新しいものになる。
融合ほどゆったりした、豊かなものはないんですね。
「令」もそうだと思います。
万葉集はグローバル
新元号は
万葉集の巻五、大宰府での梅花の宴の歌32首の序文
から採られました。
初めて国書から採用された、いやルーツは漢籍だ、
と議論がかまびすしいですが?
万葉集はグローバルな口承文芸
立脚点は「日本人」ではなく「人間」
国書か漢籍かという言葉自体、誤解を生みます。
万葉集は中国を決して排除していません。
万葉集は文化の東漸のなかで形成された
グローバルな口承文芸です。
口言葉、唇言葉の歌というものを持っているのが
万葉びとです。立脚点が「日本人」ではなく、
「人間」なんです。
「生きる意志」重要に
令和の時代の日本は
どんな国を目指すべきなのでしょうか?
明治の前半、日本は外に膨張せず、小国であれ、
という主張もありました。中江兆民はその代表です。
小国として賢く、誇りを持ってふるまおうと。
ところが、日本は
途中から自らが大国だと誤解をした。いま、もう一度、
小国主義の議論をしたいものです。
小国とは
いわば真珠のような国です。
真珠はどこに転がされても光っています。
薄暗いところでも。
平和憲法にもそんな輝きがありますね。
輝いているじゃないですか、9条は。
以上が中西進教授のインタビューの抜粋です。
私たちは一人ひとりの意志で、
平和な時代を作り上げていきたいですね。
「令和」の典拠
万葉集の巻五、大宰府での梅花の宴の歌32首の序文
時は、天平二年(730年)正月十三日のこと。
九州・大宰府の大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で、
花見の宴が催されました。
お正月、梅の花見の宴です。
梅は
当時、外来の珍しい植物でした。
大宰府は
大陸交流の玄関口であり、
この地に赴任した役人たちは
その梅の花の白さに、魅了されました。
(大伴旅人宅に集まった)客人たちは、次々に歌を詠みます。
その三十二首の歌々を束ねて前文としてつけられたのが、
梅花歌序文です。
残念なことに、この序文の作者は誰なのか、わかっていません。
一見すると主催者である大伴旅人のように思えますが、
山上憶良が代筆しているという説もあるそうです。
原文は
「于時、初春令月、気淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。」
となります。
もともと「令和」という熟語があったのではなく、
対句になっている「令月」と「風和」から一字ずつ取って、
「令和」という元号になりました。
書き下し文は、以下の通りです。
時に、初春(しよしゆん)の 令月(れいげつ)にして、
気淑(よ)く風 和(やはら)ぐ。
梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、
蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かを)らす。
これをさらにわかりやすく現代語訳すると、
折しも初春のめでたい月、
空気は清らかで風も穏やか、
梅は鏡の前で白粉をつけた美人のように白く咲き、
蘭(藤袴)は身に帯びた匂い袋のように薫っている。
*蘭=フジバカマ(藤袴)の古名
フジバカマは
「秋の七草」の一つで、
万葉の時代から
人々に親しまれてきた植物です。
夏の終わりから秋の初め、
茎の先端に直径5mmほどの
小さな花を、
長さ10cm前後の房状に多数咲かせます。
生乾きの茎葉にクマリンの香り(桜餅の葉の香り)があり、
中国では古く芳香剤として利用されました。
平和への思い
よき時に、よき友と宴を共にする。
それが、人生の最良の時ではないか、
と、人々は和歌を作り、宴を楽しんだのでしょう。
どんな時代でも、
人びとは平和な時を求め、
新しい芸術と文化を模索します。
「令和」という元号には、
そういった平和への思いが込められています。
外務省が英語訳とした「Beautiful Harmony」
も、美しいですね。
「 初春令月、気淑風和」の意味
(中西教授より)
729年、京の都、平城京では
「長屋王の変」が起き、
藤原4兄弟による独裁が始まりました。
大伴旅人はそうした時期に左遷されて
大宰府にやってきたのです。
大伴旅人には
中央政府への複雑な感情があったに違いありません。
そんななかで開いた宴の序文には
権力者にあらがいはしないが、
屈服もしない、という気構えが見て取れます。
本当はどんなに悔しかったでしょう。
それを抑えて、悠然と風流を楽しんで宴を張る。
不如意のときの見事な生き方を示してくれています。
と中西教授は語っています。
そうした人としてのありかたは見習いたいものです。
ではではニゴでした。